藤沢駅でのこと。
私の数m先で杖をついていたお爺さんが倒れようとしていた。
すぐに荷物を捨てて、飛び込めば抱きかかえられたはず。でも、何もせず、「大丈夫ですか!」って、声をかけている女性の声を聞きながら、その脇を通り過ぎただけ。
その重さに耐えられなくても助けようとする人がいる。力が足りなければ、限られた人しか助けられない。でも、助けようという思いを持っていない人間は誰も助けられない。
今の自分は後者の人間。
藤沢駅でのこと。
私の数m先で杖をついていたお爺さんが倒れようとしていた。
すぐに荷物を捨てて、飛び込めば抱きかかえられたはず。でも、何もせず、「大丈夫ですか!」って、声をかけている女性の声を聞きながら、その脇を通り過ぎただけ。
その重さに耐えられなくても助けようとする人がいる。力が足りなければ、限られた人しか助けられない。でも、助けようという思いを持っていない人間は誰も助けられない。
今の自分は後者の人間。
いつもは見ないのだけれど、mixiに何か機能追加されたようだ。「・・を検索対象にしない」とか。
当初、聞いていた(mixiの)方向性とは少しずつずれてきたようで、情報発信はいくらでも流させる、他人からは隠れようとする、知らない人とは交わらない、とコミュニケーションの裏に潜む影が強くなっているような気がするのは私だけ?
コミュニティを見ても、同じようなスレが乱立したり、同じテーマで話してても他人との交わりが無い。昔のパソコン通信と比べても異様な感じを覚える。
まるで、魚の大群が滝登りをしているようで、同じ方向を向いているけど誰も横を向かない。自分の思いだけを書きなぐっているよう。
私自身、mixiのおかげで会話が弾んだり、知り合いが増えたのは事実。
顔を合わせていえないことも、ここでならうまく伝えられることもある。
複数のIDを使い分けることも、自分の正体を隠すことも悪いこととはいえないし、理解もできる。
そういう表面的なことではなく、根本的な方向性に違和感が...
ネットを使っていて嫌になる部分、影の部分、人間のいやらしいところがどんどんmixiの新機能に集約されていっているような気がするんだけど...
でも、これって「mixiが変」なんじゃなくて、人間の欲求がそういう方向に向かっているということなんですよね。
飲み会の帰り、降りるバス停も通過するほど眠かったのに、布団にも入らず「ハケンの品格」。
今回はこれまでの中でも秀逸。テーマは「ヤマアラシのジレンマ」かと思っていたが、もっと深そう。
面白いのに、悲しい。悲しいのは何故?
人の輪に入れない自分とダブルものがあるから?
他人と交わることで傷つくこと、傷つけることが怖い。傷つくリスクを負うくらいなら、近寄らないでいた方が良いとも思う。近づけば近づくほど絶対に交われないという溝も深まるばかりだし。
そうして一人になることを選んでいる反面、大切な人達が近くにいないと不安にもなる。
人に話しかけたい自分と、怖くて人の輪の中に入ってゆけない自分。その間を行ったり来たり...
「ハケンの品格」にも通じるものを感じていたが、これからの展開はどうなるのだろう。
今後の予想...ハッピーエンドではあって欲しくない。「リスクを負ってでも近づきたい人もいる」ってのは、どうかな?自分の願望?
長男・次男と公園に行ったときのこと。
「お父さん、仕事一杯で、もう遊べないよ。」「じゃ、お父さん、帰っていいよ」ということで、公園から引き上げることに。と、いっても子供だけを残すのは私にとって初めての体験。
兄弟だけの公園デビュー。二人はなんともないが、こっちは冷や冷や。
「怪我するなよ」、「車に気をつけろよ」、「手加減しろよ」って、散々言ってから公園を後にする。
家に戻り、「二人だけ置いてきたよ」と言いながらも心配でたまらない。仕事が手につくわけもなく、「折角の休みなんだから、無理してでも遊んでやれば・・・」と後悔ばかり。
程なく、兄弟二人の他に友達を連れて家に帰ってきた。
これまで、ずっと一緒にすごしてきたが、そろそろ子供たちだけで遊ぶようになるのだろう。
遊び疲れて、「お父さん、マッサージして」という息子に添い寝しながら、私の方が子供から独立しなければと思う。
何度かお会いしたことがある人から「私はネットの中では変なんです」という話を聞いた。
その時は気にもせず、また、ネット上でも「確かにこういう一面もあるな」と新たな一面を見たつもりでいた。でも「知らない人からは誤解を受けるかもしれない」と言っていたようなことは、ありえるかも。
今のCMSやSNSは情報交換が盛んな反面、それが誤った方向に走っていくのも速い。自分の表現力に問題があることもあれば、周りからいろいろ書かれて段々あらぬ方へいくこともある。
本当の自分、こうありたい自分、見られている自分、そして、見せようとしている自分。現実もそうだがネット上では全く一致していなかったりする。
ふざけて違う自分を演じるのではなく、周りから身動きの取れない人格を作られることも多くなっている。
そして、そのまま虚構の世界で生きている人も。
でも、どっちが本当の姿なんでしょうね。
私もどう付き合ってよいか分からず、どう話してよいか分からず、何度悩まされたことか。
子供とドライブしていたとき、「お父さんの好きな色って何?」と聞かれたが、とっさに答えられない。
「俺、xx色、お母さんはxx色」と会話は進んでゆくが、うまく答えられない。
「昔は緑が好きだったな~。車なら汚れが目立たない銀もいい。紫も悪くないかけど、あまり受けは良くないか。」などと言ってみたものの、そういう答えを期待していないことは良く分かっている。
「車だったら」とか、「携帯電話だったら」なんてことではなく、いつも気に入っている色があって、とっさにそれを答えればよいだけ。
そういう無心な対応が出来ない自分が、ひどく汚れた大人になったような気がしてならない。
「最近、幸せすぎて、鋭くなくなっている」との指摘が飛んできた。
幸せかどうかは別にして、痛いところ。
「幸せ」の意味も何をいわんとしているかは心当たりがある。(きっと、全てを見透かした上で、こういうやわい表現を使ったんだと思いますが)
「鋭くない」も、そのとおり。
自分の立場、周りの状況を考えると...という言い訳もしたいところだが、「自分は何をすべきか」という観点で考えてみると、返す言葉もない。
ただでさえ体調が悪いし、そこにいるだけで胃が痛くなっているというのに、この指摘はショックがでかすぎ。
全て吹っ切れたわけではないけれど、おかげで忘れていたものも(少し)取り戻せたような気がします。
指摘してくれたことに感謝。
(書こうかどうか迷いましたが、これからも忘れないように記録しておきます)
もうかれこれ何年だろうか。
コンビニの支払い、ず~~~と、違和感を感じていた。
なんか気持ちわるいというか、落ち着かないというか。
最近気づいたのだが、「お金をカウンタに置く」というのが変。まるで地べたに置くように、境界線も何もないカウンタに置く。受け取るほうもお金を拾い上げるのではなく、ベタッと置いたままズルズル引きずってカウンタの端までゆき、手のひらに落としている。
多くのコンビニがこの方法を採用しているので、きっと理由があるに違いない。
オペレーションの効率化か、トラブルの防止か、見当もつかないが...
しかし、どういう理由があろうと、こういう扱いってお金に対して失礼じゃないか?
道徳的に許しちゃいけないと思うんだけど。
現在受けている仕事の中でもっともモチベーションのあるところから、それほどでもないところへ移動中。
休みや他の仕事を挟まずに、この2つの仕事を行き来すると落差が大きくて、どちらにいくにしても気持ちの切り替えが難しい。
どちらもほぼ同じ時間だけ関わっているが、同じ時間をすごすにも濃度が違う。
前者は、このような掛け持ちをするために沢山の人が協力し、リスクも負担も背負ってもらっている。後者はお構いなし。それはこっちの都合なので、バックボーンがどうだろうと知ったことではないというのは理解できる。
しかし、前者の思いを裏切るように時間が過ぎることが腹立たしく思う。
どうして、こんな風にしか時間が過ぎないの....
いや、それを相手に求めてはいけない。そういう頑張っている世界があることを伝えるのも私の仕事かもしれない。
前向きに頑張っている人たちから貰った元気、今度は私が伝えたい。